「あ、プリント。」 それを見つけたのは終業チャイムが鳴って、部活動に勤しむ生徒たちがあっという間に教室を出てから。特段部活動にも入らずのらりくらりと中学生らしからぬ毎日を送っていた私は、今日もさっさと家路につくつもりだった。荷物をまとめてさて帰るか、と席を立った時にふと目に付いたのがそのプリントだったのである。斜め前の席にぽつんと放置されたそれは英語の課題で、明日の授業で提出しなければならないものだ。提出物に厳しい英語の先生だから、このまま私が見て見ぬふりをして帰ってしまえば、このプリントの持ち主は確実に追加で課題を出されるだろう。 「どうしようかな…。」 正直このままでもいいかな、とも思った。別に私に被害が来るわけでもないし、それに本人が帰ってしまっていては渡しようもない。ふむ、と腕を組んで逡巡したものの、そういえばこの席に誰が座っていたかを思い出し、届けてあげてもいいかなと思い直す。そうと決まれば善は急げ、だ。プリントを鞄に突っ込んで早足に教室を出る。 私がこう思い至ったのもこのプリントの持ち主がちょっとした有名人であるからに他ならない。もしこれが腐れ縁の堀尾だったりしたら私は見向きもせずに速攻で帰っていたと断言できる。要するに私のミーハーな心がくすぐられたからだ。我ながら何とも短絡的だと呆れはしたが思いとどまる理由にはならない。確かに同じクラスではあるものの一度も話したことはないし、部活中なんておいしい機会を逃す手もない。内心わくわくしながらテニスコートを目指して歩くテンポを早めていく。 「えーっと…どこだろ?」 お目当てのテニスコートに着いたはいいものの、肝心の人物が見当たらない。テニス部は人数が多いし、仕方ないと言えば仕方ないのだが。今は丁度休憩中のようで、タイミングが良かったことを素直に喜びたいが、あちこちに視線を向けても目的の彼は見つけられない。それよりも真っ先に目についたのは見掛け倒しの派手なウェアを着た我が腐れ縁。思わず舌打ちしたい気分になったが仕方ない、ここは奴に王子様を呼んでもらうとしよう。さすがにコートには入れないのでフェンスにもたれかかっていた奴の背に声をかけた。 「ちょっと堀尾。」 「うわっ!びっくりした、なんだか…。」 「そうよ私。今日は別にあんたに用事あった訳じゃないんだけど。」 「じゃあ何の用だよ?」 「越前くん、どこにいるの?」 「は?越前?」 「そう。テニス部1年レギュラーの越前リョーマくん。」 私が越前くんの名を出すと、堀尾はあからさまにげんなりしたようにため息をついた。なにそれ腹立つ。いくら私のミーハーな部分を知られていようともこいつにこんなリアクションをされるのは大変心外だ。いいから早く越前くん出しなさいよ、と語調を強めて言えば今水飲み場にいるだろうからもうちょっと待ってろよ、と呆れたような返答が飛んできた。 「ってほんと美形好きだよなあ。」 「いいじゃない。美形は目の保養なの。それに今日は見物目的だけじゃないんだから。」 「なんだ、マネージャーにでも志願すんのか?」 「しないよ、そんなファンに恨みを買うようなこと。今日はただプリント届けに来ただけ。」 鞄から英語のプリントを取り出して堀尾に突き付ければ納得した様子だった。と、その時後ろに気配を感じて首だけで振り返る。私の視界に入ったのはトレードマークとも言える白の帽子と緑がかった黒髪、そして意外と近くにある彼の整った顔。至近距離で見ても綺麗だな、なんて咄嗟に出てきたどうしようもない考えを頭の隅に追いやり、やっと発した言葉は何とも間抜けに聞こえただろう。 「…あ、越前くん。」 「なにしてんの。」 表情を変えることなく向けられた問いに、堀尾に突き付けていたプリントを差し出す。それだけで理解してくれたらしく、ああ、と呟いてそれを受け取った。さて、これで私のやるべきことは終わった。プリントは渡したし、越前くんを拝めたし、言葉のキャッチボールらしきものも一応達成したし。今日はちょっとついてたかも。そんなことを思いながらじゃあ、と踵を返すとこれまた意外にも後ろから引き留めるような声がかかった。越前くんだ。 「もう帰るの?」 「うん。やることやったし。」 「部活見ていかないんだ。」 「んー…それも考えたけど別にいいかなって。」 「ふうん。」 困惑と驚きの入り混じったような微妙な顔をする越前くんに、もしかしたら、と思い当たることがあった。多分私のようなミーハーな女の子というのは普通部活する姿を見て黄色い歓声を上げたり、話題をたくさん振ってもっと話したいとアピールしてみたりと積極的なイメージがあるのだろう。越前くんはそういうファンも多そうだし、実際そんな先入観を持っているのだと思う。だけど私はそういう女の子たちとは少し違うと自分で思っている。 「私は確かにミーハーだけど、美形は観賞用だと思ってるから。」 見てるだけで十分だし、お近づきになろうなんて思わない。当然僻みや妬み、苦言や嫌悪が飛んでくることは想像に難くない。そんなのまっぴら御免被る。富士山は遠くから見るから綺麗なのだ。それと同じ。しかし言外に込めた意味を正確に読み取ったのか、越前くんはその瞳に挑戦的な色を乗せて私を見返してきた。あ、越前くんって案外挑発に乗っちゃうタイプ?なんてそんなことを考えている場合ではない。 「じゃあ余計見ていってよ。俺、言い逃げされるのイヤなんだよね。」 自信にあふれた、それでいてどこか楽しそうな越前くんに内心頭を抱えたくなった。これはちょっと厄介な人に捕まったかもしれない。元が良い分、本気で囚われたらもう後戻りなんて利かないのだ。あとはもうひたすら盲目になって、どこまでもおちていくだけ。それが怖くて今まで本気の恋愛なんてしたことのない臆病な私。だからこそこのスタンスが性に合っていると言い聞かせて距離を置いていたのに、越前くんはその距離を一気に縮めようとしてくるのだ。おそらくその気なんてないくせに。苦笑いで後ずさろうと一歩踏み出そうとしたが、失敗した。彼の左手がしっかりと私の右手を捕えたからだ。 「ちゃんと見ていくよね?」 「…そうさせて頂きます。」 私から売った喧嘩でこんな事態になるなんて予想外だ。もう逃げ場はない。ならば堂々と正面から負かすしかない。半ば睨むようにコートに入った彼をフェンス越しに見つめる。さてこの勝負、勝つのは私か、それとも彼か。 試合が始まり、左手にラケットを握ってボールを追う越前くんの目は、間違いなく捕食者のそれだった。 投げたコインの行く末は (勿論俺が勝つんだけど、ね) 「私の彼は左利き!」様に提出! 2012.7.12 |